実は、目には見えない次元における・・・スピリチュアルな働きかけというものがあります♫
第3弾では、そうした視点からのメッセージをSenju翻訳にてご紹介していこうと思います。
もちろん、貴方が実際に香った時に感じることこそが一番大切です★☆★
「オープンマインド」
子どもの頃のような純真さに立ち返れたら、
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又、啓文社さんのポートプラザ店・コア福山店・新浜店の方でも、この度お取り扱い頂けることになりました。夏の(でなくてもいいが)日差しの中、いずれ消えてゆく日向水。さてそれを寂しいとみるか、さだめとみるか、ではあるが、まさに存在そのものの本質がそこに在る。・・・・なんちゃって。(笑)幾分観念的な感じもないではないが、今の自分の気持に即して採った。(笑)
ビール党の僕にとって「飲む飲む」と即返してしまった。ビール会社のキャッチコピーに推薦したい。
寂しさと取り合わせることで、置き去られて温められた日向水のありようが表現されているように思いました。いつもと同じでありながら、ふとそこに潜むものに気が付く。季語の選択が秀逸。
老老介護でばあちゃんが亡くなり、葬式終えたのを機にじいちゃんがボケてしまう
月がばあちゃん月に向かって飛ぶ蛍がじいちゃん
蛍となってばあちゃんを追いかけ、ひと月後に施設へ入るじいちゃん
抜け殻になったじいちゃんは月を見てぼーっとしたままな感じかな
生身魂というお盆の作法は、私にとっては身近ではないけれど想像して思わず(不謹慎にも?)クスっとしてしまった。生身魂は生きている、けれども「魂」と呼ばれる特異な存在。「賜ふ」が示すとおり、少なくとも形式上は敬う対象ではあり、神聖なもの、とされていても実際は生身の人間。だから、「白粉を気に入る」。そこから匂い立つ尽きない欲望・執着。欲とは生々しい生だ。それをおかしみとだけ評するよりも、混濁する生と死の世界に迫っていることこそこの句の本質だと思う。
早朝から蝉の声、ほぼ目覚まし時計。朝起きた時の気怠さと汗ばむ肌感、夏の匂いが伝わってきました。私の家でも朝から蝉の鳴き声が激しいので共感。
山門と、くぐるという言葉は近いかもしれない。さらに、くぐった奥に何かあるかあるのは、容易に連想できる。そこに夏座敷という季語がぴたっと収まって、俳句という体を作り上げている。さらには、涼しさまで読み手に与える、これぞ夏の俳句。
時々木や葉っぱにしがみついて、ただじっとしている蝉を見かけます。何を考えているのだろう、と思って見ていると、蝉の命ははかないことを思い出し、少し寂しい気持ちになるのです。その感じが「秋の蝉」という言葉でうまく表現されていると思いました。
蝉の声や、おちている骸には目がいきがちだが、ただ、そこにいるという姿にはっとさせられた。とても秋らしい句だと感じた。
私も残暑で詠んでみたけど、この句の方がいいなと思いました。「手のひらに籠る」も「四畳半」も残暑の過酷さをより引き立てる表現になっていると思います。
DIYに悪戦苦闘。汗まみれで頑張ったけれど、諦めることに。床にゴロンとなったときの涼しさが目に浮かび、選ばせていただきました。
お盆の月夜、食膳に置かれた箸置に鼻の穴があった。描かれているのは、ただそれだけのこと。しかして、お盆という・・・人がこの世に生を受けて存在する縁をより実感する時節の夜に、人が生きて行く上で欠かせない食べるという行為と、人が生きていく上で欠かせない呼吸器である鼻の穴とを意識(並列)することは、やはり「生きている今」を強く実感する上で、この上ないことのように思われる。きっとこの夜の月も鼻の穴のようにまん丸満月で、この世とあの世の出入り口を連想させるものであるに違いない。
こちらまで気不味いような気になってくるようないや〜な句(褒め言葉)。
決着のつかない話し合いの場で、水まんじゅうがどんどんぬるくなって…という情景が浮かびます。 生ぬるい水まんじゅう、これはおいしくないですね…。冷えているときの清涼感が生ぬるくなることで打ち消されるどころかじとっとした不穏感がマシマシ。ひらがなを多用しているところもなんだかぬめりを感じるようで、容赦ない。 歳時記で水まんじゅうの例句を見てみたら、爽やかな句ばかりだったので、こんな水まんじゅうの句はかなり珍しいのでは。オリジナリティに1票、ということで取らせてもらいました。